1985年頃

いよいよ卒業研究をしなければいけないことになった(あたりまえだが)。
なんと、担当が(よりによって)戦略的決定をサポートするシステムをつくることであった。なじみの無い方も多いと思うが、ルーチンワークでなく、人が経験や勘をもとに行っている意思決定をサポートするというものであった。言っては何だが、そんなものできっこない!と思っていた。しかし、そこは教授の豊富な経験と勘である。戦略的決定論なる本をポンと渡してくれた。それには、イエローマーカーで印がしてあった。しかし、印が多すぎる。これが全部重要であれば印なんかなくても一緒じゃないか!。しかし、教授のパワフルで猪突猛進的な行動はすさまじかった。はい、これ...はい、これ...と次々に資料を渡される。それでも、教授は少しづつと気をくばてくれていたようだ。これをシステムで実現する?まあなんとかなるかもしれない(けど、おそらく無理じゃない)なんて考えながらシステムづくりが始まった。それには、N○Cの9801Eに5インチのフロッピーが2枚入るドライブが外付けされているものを使った。しかも、LISPもチャチげであった。そして、OSがなんとCP/M−86(?)。MS−DOSがぼちぼち顔を出しかけた頃だったと思うので、当時は「これだ!」なんて使っていた。(他を知らないだけ)。このころ2台しかない9801に群がっていたのでなかなか進まない。一部の人は、前述のターミナルルームで四苦八苦していたようだ。しかも、ダイナモ(?)という言語にはまっていた。大分過ぎた頃、アルバイトをしていた共同研究者がたまに来ては、バイトが忙しいと言ってすぐ帰る。あまり顔を出さない。その為、自分で何とかしようと遅くまで98と「にらめっこ」。この頃から研究室に泊まるというのが当たり前になってきた。結構住み心地がいい。学食は安いし、銭湯も心地よい。夜の出前もおもしろい兄ちゃんが持ってくるし、みんなとわいわいしながら晩御飯もいいと思ってきた。まあ、言うならば、外界との境がわからなくなってきた頃とも言える。もう、standard LISPなんて、忘れていた。大型コンピュータとパンチングマシン、そしてあのDUP様さえ、過去の良き思い出になってきていた。それほど、9801はぐーたらな私を満足させるものであった。とはいえ、CP/Mで動く、しかも関数が少なく自前で作らなくてはならないものが多く、どんどん壺にはまってゆく。関数を作ると言ってもDUP様だのみの私が作るものであったため、中身は「ぐちゃぐちゃ」、あとからデバッグする時などは、まず深呼吸してからそして、「神様、どうぞあわれな子羊をお助けください。」と祈ってからであった。まさに、「神頼みデバッグ」であった。他の人がもしこのプログラムを改善、修正なんてすることになったら「気が変になる」のだろうなと思っていた。この可哀想な生け贄は次の年に誕生することになる...。<br>

そういえば、この時の神様は(ミッション系の大学にいたので)キリスト教であった。金光教の信者(というほど信心深くもないのだが)の私としては、つらい思い出でもあるが、キャンパス内に教会もあり、ついそうなっていた。コンピュータに神頼みというと何か妙な感じだが、このあとの神頼み人生が続くことを考えると実は関係が深いのだ!と一人で訳の分からないことを考え納得していた。<br>

そんなこんなで、システム作りに励む毎日。プロダクションシステムとかフレームシステムとかにも慣れ。鼻歌混じりになってきた。とは言え、全体が見えてこない。どうにもトップダウンの思考が出来ない。得意の、「まあ、なんとかなるさ」が出ている毎日である。最も苦労したのは、ナレッジデータベースの形とそれを制御するシステムであったような気がする。「できるだけ簡単に」を心がけ、それがわたしの得意なところと思っていたが、実は、どんどん複雑になり、プログラムの開発と修正との繰り返しであった。しかし、出来上がってくるとどんどん簡単になっていた。simple is bestというが、「ホントにこんなんでいいんだったっけ、なんか違うような気がする。でも、また戻ってる暇はないや!」と 珍しく苦悩の日々を送っていた。この年は、幾度と無くスランプも経験した。スランプとは出来る人が突然出来なくなるので表現が正しくないかもしれないが、本人は、結構迷いを感じていた。そんなときは、夜の出前を食べながら、みんなと一緒に、「やっぱり宗教だ!人を救うのは宗教しかない。コンピュータでは人は救えない。みんなで、宗教を興そう。教祖は、○○で、信者の管理を行うソフトを開発して...」と半ば真剣に考えていた。「教会の本部は富士山の樹海の中で...」なんて。どっかの宗教と同じようなことではあるが、人の生き死にを操ってはいけないことでは意見が一致していたので、某教団とはちょっと違います。<br>

やはり、相棒は出てこない。これこれだけは作ると言っていたので、一応任せていたが、だんだん不安になってゆく。結局最後にどたばたで、なんとか形になった。しかし、論文を書かなくてはならない。98に「松」が入っていたので、これで書こうと思っていた。今なら当たり前のことだが、このころは少ない98にみんなが群がっていたので、まだ、開発途中の人が使うため、手書きとなった。そうでなくても字の汚いわたしは、内容がとやかくより、字が読めず、論文が通らないのではないかと心配だった。なんとか書き上げたが、相棒と手分けしたわりには...と書きたいが、教授のチェックでつぎはぎになり、こんなに、字を書いたのは初めてという状態が続き、本人たちの考えていたのとチョット違ったものになっていた。「これを元に論文発表するのか!」と思うとドキドキワクワクではなく、ドキドキハラハラしてきた。そう!論文発表。先生方の前でOHPを使って発表するのである。しかも、相棒と手分けして。相棒に「だいじょうぶか?」と聞くと、「ぜんぜん」と答える。最近の日本語に「ぜんぜん大丈夫」というのがあるようだが、そんな冗談が通用する時代ではなかった。さあ大変。手分けして、発表の用意をしている間に、要領の良い彼は、大分理解したようで、「まあ、なんとかなるさ。なにかあったらフォローは頼む!」と言っていた。いい男であったが、やはり要領が良かった。実際に、発表してみると、質問がなかなか出なかった。人工知能がまだ浸透してなかったこともあり、教授の方々も知らないことを質問して「恥」をかきたくないということもあったのであろう。教授ともなると大変だと思った。あたりさわりのない質問を2つ程受けて、2人は無事解放された!やった卒業できるかもしれない。この、卒業後の進路にまつわる話を忘れていた。<br>

私は、就職を春先から考えていた。理系が花形になってきていた頃であるし、教授の推薦をもらって悠々就職というのが多かった。そこで、ある陽春のころ、教授の部屋のドアをたたき、「実は就職のことですが...」と切りだした。すると、教授は、「ああ、○○君大学院きまったから!理系だと大学院くらい出といた方がいいよ。後々も違うし」。えっ!私は、何も知りませんが。「そうだね、親にも相談しないとね。」そうじゃない!私は何も聞いてないですよ。「それじゃ、親に相談して、また知らせて!」はい、失礼します。といった会話で、いつの間にか終わっていた。私は、中学から大学まで親不孝の連続であったため、「ええかげんにせい!」と怒られることを覚悟で家に電話した。「どうも、教授が就職せずに、大学院に行けといってるんだが」。「何。ホントか...ホントに行けるのかお前が。」この言葉にカチンと来た私は、行くことを決心したが、「仕送りのこともあるが、出来たら行きたいんだが」と言うと、「まあ、行けるんならなんとかしよう!」とのこと。後日教授に「行きます」というと、「そう言えば、推薦で行けるかな?成績良かったっけ。何番くらいかな?」。「チョ、チョ、ちょっと待ってください。行けるんじゃないんですか?」。「まあ、調べてみるから。おそらく大丈夫でしょう。」げ〜、そんなんあり?推薦を受けるためには、成績が...こりゃむりだ!やっぱり就職だと思っていたら、なんとか転がり込んだ。この学科から8人行ったが、成績はおそらく、一番悪かったろう。この頃が人生の転機でもあったように思える。まさに...